園長便り

人生の意味

園長:村沢秀和

ドストエフスキーの「死の家の記録」という本の中で、囚人に苦役を科し、毎日土の山を別の場所に移し、またもとの山に戻すといった仕事を繰り返させたら、数日で首をくくって死ぬだろうと言っています。目的や意味があれば、たとえ苦しいことでも人間は我慢できるものです。でも、まったく無意味なことだと自分で知っていて、何日も何日も強制的にさせられたら、人間はおそらく、だんだんとだめになってしまうだろうとドストエフスキーは言っているわけです。

以前、瀬戸内海の岩国で、ある工場が排水した物によって海が汚染され、魚が食べられなくなってしまったことがありました。それは地元の猟師の生活を直撃しました。そこで工場は漁師たちが海でとった魚をすべて買い上げることに決めました。明け方、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っています。魚種ごとに魚の目方をはかったあと、工場に運んでタンクの中に汚染魚を捨てます。そして、悪臭を放つ魚に、お金が払われるのです。

はじめのうちは、取れば取るほどお金になるので、精を出して出漁する人もいました。しかし、やがて漁師たちの間にやるせない気持ちが湧き上がってきます。猟師たちは、「何のための人生か。漁民だっておいしい魚を食べてほしいのだ」「情けなくて涙が出ます」と口々に訴えるようになります。

ささやかであっても良いから、自分のしていることに意味を感じたい。人間とはそう思うものではないでしょうか。これは子どもでも同じです。

ある男の子が幼稚園のときからずっとピアノを習っていました。幼稚園のころは楽しくピアノ教室に通っていたのですが、小学校の高学年にもなるとだんだんつまらなくなってきて、「もうピアノを辞めたい」と言うようになります。母親はせっかくここまで頑張ったのだから、もう少し頑張りなさいと言いました。すると男の子はこう言うのでした。「何のためにピアノをするの?」。

つまり、ピアノを続ける目的や意味がわからないというわけです。そう問われて母親は「将来、何かの役に立つから」と言いながらも、果たして息子の将来にどれほど大きな役に立つだろうかとの思いがよぎりました。将来音楽の道に進みたいとか、ピアノが大好きというのなら良いですが、そうではないことがわかったとき、確かに続けていく意味を見失うのです。

漁師の問題にしろ、子どものピアノの問題にしろ、何のためにそれをするのかという問いかけは、やがてわたしたちを人生における究極の問いかけに導きます。それは「人は何のために生きるか?」という問いかけです。これは古今東西、多くの人が悩み考えてきた問題です。簡単に答えの出せるものではないかもしれません。しかしとても重要な問題なのです。

聖書の言葉を1つご紹介しましょう。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られました。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エペソ2:10)。

神様は一人ひとりの人生にご計画を持っておられます。そのご計画の中に歩むとき、人は人生の意味を見出すことができると、聖書は教えています。