園長便り 2011-13

与える木

園長:村沢秀和

シェル・シルヴァスタインの「ギヴィング・ツリー」(邦題「大きな木」)という絵本があります。
1本のりんごの木が、1人の少年に緑あふれる遊び場を与える場面から物語は始まります。枝にブランコをぶら下げて、楽しいそうに少年が遊んでいます。木は少年が喜んでくれるのでとても幸せでした。この少年を喜ばせるために、木はなんでも与えようとしますが、この木が払う代償はだんだんと大きくなっていきます。
少年が青年になると、「遊ぶお金が欲しいんだ」と言います。木は「自分のリンゴを売って、お金に換えたら良いよ」と言います。青年はその通りにして、去っていきます。
しばらくして、彼は「結婚するんだ。だから家が欲しいんだ」と言います。木は「材木として自分の枝を切ったら良いよ」と言います。彼はその通りにします。木は青年が喜んでくれるのを見て、幸せでした。
やがて今度は、友人たちと遊ぶボートが欲しいとねだると、なんと木は「自分を根元から切り倒せばその幹でボートを作ることができるよ」と言います。そして、彼は無分別にもこの木を切り倒してしまい、痛ましい、孤独な姿の切り株だけがぽつんと残ります。それでも木は幸せでした。
しかし、ここでこの絵本は読者に問いかけるのです。「でも、それは本当かな?」って。
この問いかけに、日本と欧米の子ども達にアンケートをとりました。すると、興味深いことに、日本以外の国の子ども達は「そう思う」と答えた子が多かったのに対し、日本の子どもの多くは、「本当はいやだった」「いやだけど、しかたなくやった」と、見事にその答えが分かれたのです。この違いは、どこからくるのでしょうか。考えさせられます。
さて、このようにして木はすべてを捧げ尽くしてしまうのですが、やがてかつての少年も老人となって、腰を下ろして休める静かな場所を求めて戻ってきます。木はやはり自分の精一杯のもてなしをしようと、自分の上に腰掛けて休むように促します。老人は自分がかつて切り倒した切り株の上に腰掛けます。そして、最後にやはりこう言うのです。「木は幸せだった」と。
見返りを期待しないで、最後まで愛を与え尽くす。このような犠牲的な愛のモデルは、おそらくイエス・キリストなのでしょう。でも、木が幸せだったって、あなたも本当だと思いますか?