園長だより2016-13

「愛」は「水」② 心を潤すもの

園長:平田泰三

札幌での初雪を体験しました。数日前、園庭で子どもたちとふわふわ飛ぶ「雪虫」を追いかけっこしたところでした。自然の営みは不思議に満ちていますね。本格的な雪の時期はまだ先のようですが、皆様の生活の安全が守られますように。

親知らずの抜歯は無事、終了いたしました。励ましの声をかけてくださった方々、有難うございました。

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さて、聖書に「愛」が「水」にたとえられているところの2回目です。前回「水」は大変貴重で、わたくしたちの生活、命にとって欠かすことのできないもので、その水に「愛」がたとえられていることをご紹介しました。聖書の言葉に「イエスは答えて言われた。『このを飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与えるを飲む者は決して渇かない。わたしが与えるはその人の内で泉となり、永遠の命に至るがわき出る。』」(ヨハネ福音書4章13-14節)とあるのですが、ここに記されている「渇き」は「心の渇き」を意味しています。おいしい「水」が「体の渇き」を潤すように、神様の愛が人の「こころを潤す」ことが書かれているのです。

このヨハネの福音書4章には、身も心もボロボロになっていた一人の女性とイエスとの交流の物語が記されています。この女性は「サマリア」という地域に住んでおり、ユダヤ人にとっては「避けて通る地域」「敵対している地域」でした。また、さまざまな事情からこの女性は人目を避けて、生活していました。人々から後ろ指をさされ、いろいろな偏見の中、共同体からも村八分になっていました。苦痛、むなしさ、寂しさ、孤独の中で暮らしていたようです。その女性の心は、砂漠のように「渇いて」いたのです。しかし、イエスはそのような女性に「天の神様は間違いなくあなたを大切に思っている」ということを「水」にたとえて語られたのでした。「砂漠」のようであっても「井戸」を掘り当てるなら、そこは「オアシス」となるのです。すべての人の心にまだ掘り当てられていない「愛の泉(井戸)」があるということが語られているのです。