園長だより2016-12

 「愛」は「水」①

 園長:平田泰三

朝晩がすっかり寒くなりました。本州から来た者にとっては冬が来た感覚なのですが、北海道の方々に言わせると「まだまだ」なのですね。季節の変わり目どうぞ、ご自愛ください。私事ですが、来週、口腔外科で親知らずの抜歯をする予定です。少々やっかいな生え方をしている為、抜歯方法について、「あごの骨を少し削って・・・」というような説明を受けると、いやでいやで仕方がないのですが、園児から「園長先生がんばって」「痛くないよ」「歯医者さんは怖くないからね」と励まされています。その時、ふと思ったのですが、そのような園児たちの優しい言葉は、きっと日ごろ親御さん方がお子さんたちに語りかけておられる言葉なんだろうな、それをお子さんたちが真似て、わたしに言ってくれているのだろうな、と。

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さて、「愛は○○」シリーズ、みなさまのご家庭がより祝福されることを願って、続けてまいりたいと思います。今回は聖書に「愛」が「水」にたとえられているところをご紹介します。

ところで、「水」はどれだけ貴重でしょうか。これは、レストランで「無料の水」が何杯も飲め、「水」が豊かにある日本では、少し、その大切さ、有難さが伝わりにくいかもしれません。

中東のある国では、「ガソリン」の方が「水」よりも安いところがあります。ほとんどの国では、「水」は「お店で買って飲むもの」のようです。

では、ここで少し、もしも「水」が無くなったらと考えてみてください。私たちの生活はどれだけ不自由になるでしょうか。朝、顔を洗うところから始まって、トイレ、料理、家事、入浴・・・といった日常生活が途端にマヒします。また、園庭で転んで、すり傷ができてしまった園児は、傷口をまず「水」で洗います。火傷をしてしまったら「水」で冷やします・・・そして何よりも、私たちの体は成人で約60%(乳幼児は70%)が「体液(水分)」で構成されています。「脱水」症状になりましたら、酸素や栄養素が体内に行き渡らなかったり、老廃物を排出することができなくなったりと「命」にかかわる重篤な出来事になってしまいます。「水」は大変貴重で、私たちの生活、命にとって欠かすことのできないものなのです。聖書には、そのような「水」に「愛」がたとえられているのです。

イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわきでる』   (ヨハネ福音書4章13-14節)